人の記憶というもの

先月読んだ『終わりの感覚』という小説や、その頃に見たブログ記事が「記憶」にまつわる内容だったりということが続き、最近「記憶」について色々と考えさせられました。やっと少し頭の中が整理できてきたので、そのことについて。

『ヘッセの水彩画』という本の中に、作家赤川次郎氏のこんな文章があります。

そこには常に「ヘッセ自身の苦悩」がある。物語のために作られた人物はいない。描かれる苦悩や内面の危機は、すべてヘッセ自身のものなのだ。私は、これほどまでに自分の迷いや苦しみをさらけ出すヘッセの誠実さにひかれていたのだと思う。

最近になってヘッセを読むようになり、とても心惹かれたその理由が、的確な言葉で目の前に表現されている気がして、泣きそうでした。そうだ、これなんだと。

そして、この文章を読んで、以前別の方の小説に同じことを感じたことがあると思い当たりました。

それは、上記の「(前世)記憶」にまつわるブログ記事を書かれていた方の『我傍に立つ』という小説でした。

とても好きな小説で、何度か読んでいるうちに、著者さんの、自分の記憶に対して可能な限り誠実に向きあおうとする(私にはそう感じられた)在り方が切実なくらいに伝わってくる瞬間があり、読みながら涙が止まらなくなってしまったことがありました。

読書をしていてそんな風に感じたのは初めてだったので、最初はなぜこんなに泣けてしまうのかわからずかなり戸惑いました。

先日読んだ、藤谷治氏『小説は君のためにある』の中に、

読む人を楽しませることより、ずっと深刻で切迫した思いで、書かずにいられなくて書かれた小説があるのだ。

という言葉があり、この小説やヘッセの作品もそんなふうに書かれたものなのだろうか、と想像してしまいました。

今の自分の日常の中では、「記憶に対する誠実さ」に触れる機会は驚くほど少ないです。
少数の信頼できる友人と、本の存在に救われてきましたが、あまりにも不誠実に簡単に都合よく書き換えられていく人の記憶というものに、数えきれないくらい人間不信に陥り、常に心を硬く閉ざして警戒している。そんな状態が日常化していて、だから余計に、小説の純粋さに触れて泣けてしまったのかもしれません。

自分を含め、まず誰も現実に起きたことを全て正しく記憶している人などいないと思います。人の記憶には必ず「その人自身」が入る。そうでなければ、機械と同じになってしまう。
ただそんな中で、可能な限りありのままの現実を見ようとし、またそうせずにはいられない人というのがいて、そういう人は、たとえ自分に不利になる記憶でも、決してごまかすことができない。
おそらく本人にしてみたらかなり生きづらいのではと思います。

一方で、自分の都合や感情にまかせてコロコロと記憶を書き換えていける人というのが現実にいる。
私は幼少期から、身内、上司、同僚との間で、何度もそういう人と出会ったし、自分自身も、若い頃の辛い時期に、嫌な記憶に蓋をして書き換えて、そうしてやり過ごしていた自覚があります。

そんな自分の経験も含め思うのは、記憶を自分の都合のいいように書き換えていける人の心の底には、自分自身への信頼の欠如があるということ。
自分に都合のいい記憶を生きている分、一見強く見られがちだけれど、そうではない。
ありのままを受け入れる勇気がないから、目を逸らし続け、記憶を作り替え、自分をごまかし続けている。
おそらく全く無自覚にそれをしている人が多いのではないかと思います。

人間は弱い。だから全てをありのままに受け止めていたら、おかしくなってしまうのかもしれない。だけど、それがいいか悪いかの問題でなく、本来の自分の姿から逃げ続けるのは、あまりにかなしい。

自然な自己防衛反応としての記憶の作り替え、自分を正当化するための作り替え、人を貶めるための作り替え(これも突き詰めれば自分を守るためなのかもしれません)、そうして自分に都合よく記憶を作り替えてしまうことで、自分は楽になれるかもしれない。
でも、それによって周りの誰かが傷ついている。
そのことに気づかなくてはならないと思います。
傷つける側、傷つけられる側両方を経験して、とても切実に思うことです。
事実を見ようとしてくれない相手といることほど虚しくて淋しくて、悲しいものはない。

限りなく誠実に事実と向きあうことのできる人はきっとそれほど多くはない。それができる人というのは、心の深いところに自身への揺るぎない信頼があるのではないかと思います。たとえ本人が無自覚でも。
だから辛い記憶にも向き合えるのではないか。
人の本当の強さというのは、そういうものなのではないかと思います。

そんな、作り物でない誠実さに出逢うと、たくさんの感情が溢れます。
信じられる人の存在を感じられる嬉しさだったり、荒んで張り詰めた心に灯される光のようだったり。
(それも私が自分に都合のいいように作り替えた思い込みという可能性もあるのか…?笑)

人は、人生を通して、自分への信頼を取り戻しありのままの世界をまっすぐに見つめられるようになるまでの道のりを生きているのかもしれません。

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