昨日、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』という小説を読み終えて、今日またすぐに読み返していました。
そのときに思ったこと。
小説の冒頭に、こんな文章があります。
人間というものはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるのである。それはまるで俳優がなんらの稽古なしに出演するようなものである。
…(略)…
そんなわけで人生は常にスケッチに似ている。しかしスケッチもまた正確なことばではない。なぜならばスケッチはいつも絵の準備のための線描きであるのに、われわれの人生であるスケッチは絵のない線描き、すなわち、無のためのスケッチであるからである。
「無のためのスケッチ」であるかどうかはともかくとして、確かに人生に予行練習などなく、いつもぶっつけ本番。だから上手くいかないことや、間違った選択をすることはしょっちゅうで、後悔ばかりでやり直しもきかない。
その「ぶっつけ本番」、やり直しのきかなさにこそ意味があるのだよね…?「無」ではないよね?などと考えつつ、難解な一字一句に注意しながらゆっくりと再読していたら、約30ページ読むのに1時間近くかかってしまいました。
たった30ページの中にも、一度全て読んでストーリーを知った上でないと分からなかったこと、初めて気づくことが、そこここにありました。
小説上では、他人の人生であれ何度でも繰り返し体験できる。
別の選択をして新たな人生を生きなおすことはできないけれど、結末まで全て知ったうえで、もう一度同じ人生を体験する。
最初に読んだときは、直線上に展開される人生を追うという感じなのが(この小説は、時間軸が前後していましたが)2度目には視点が変わり。一場面一場面を、全体の中の「今」、全体の中の一部として俯瞰する感覚です。
それは初読のときとは全く違っていて、すごく不思議な感覚です。ひとつの言葉、ひとつの選択が、ものすごく重い意味を帯びて、初めて見えてくるものに何度もはっとさせられます。
現実では、先の見えない頼りない「今」を手探りで生きるしかなく、しかもその体験はたった一度きり。注意深く生きる意志がなければ、表面をなでるだけのような味気ないものになってしまいかねない。そしてその人生は、記憶の中でなければ、もう二度と体験し直すことはできない。
だけど、それを小説の中では何度でも味わうことができる。
小説には、現実の世界では知りえないような、他人の思考や感情の繊細で深いところまで描かれているので、それを読むというのは、ある意味では実際の身近な人のことよりも深く人の内面を知る体験でもあると思います。
実人生では見逃して通り過ぎてしまう大切な何かに触れることができる。
繰り返し読んでいると、人間の心の機微というものに少しずつ敏感になっていく感覚があります。
どんな小説でもそれが叶うというわけではなく、やはり相性がある為(好きじゃない小説は繰り返しは読めないし、そこまで入り込めない)、そういう作品との出会いはとても稀で貴重です。
ところで、実人生で再体験を叶えようと思ったら、日記を書くことでしょうか…?
少し(いえかなり)性質は違う気はしますが。でも日記としてつづった人生の一部を、後から読み返すことで初めて見えてくることはあるかもしれない。
私は文才がないのでだめですが、文才のある人は、小説や日記を後世まで残していくこともできる。未来の誰かがそれを読んで、人の心の複雑さや奥深さを知る。表面上からはわからない心の闇の部分にも触れ、そういう体験から、未来を生きる人の繊細な感性がはぐくまれる。
そう思うと、本の持つ力って果てしないというか、あらためてすごいなと思います。