なんだかすごい本に出逢わせていただきました。
知人に薦められ読んだ本。
文庫 シッダールタ (草思社文庫)
作者: ヘルマンヘッセ,Hermann Hesse,岡田朝雄
出版社/メーカー: 草思社
発売日: 2014/10/02
ヘッセ。
ドイツの作家ということと、学生時代に読んだ『車輪の下』くらいしか知らず。
何年か前に読みかけた『知と愛』(邦題が印象的だった)は、当時の自分には読みづらく、途中で挫折。
以来、全く縁がなかった。
最初、「シッダールタ」を仏陀のことだと思っていたこともあり、自分には分不相応なような、時期尚早なような?かなり遠慮がちな気分で読み始めました。
(この小説のシッダールタは、ヘッセの創作上の人物でした)
とりあえずちょっとだけと読み始め、結局一気に読んでしまいました。気づいたら真夜中。
今までに全く出会ったことのないような小説でした。
「人はなんのために生きるのか」と深く考えさせられるのですが、感じた思いを何と言葉にしたらいいのだろう。
読んでいる瞬間にハッと気づかされる、閃きみたいなものの多くは、一瞬先には消えてしまい、何かを垣間見たのだけど、次の瞬間にはもうわからなくなっていて。
読んでいる間中、そんな繰り返しでした。
また読み直したいし、そうすべきだと思いました。
とても簡単に感想を書けるような内容ではなかったので、印象に残っているうちのひとつ、「見いだす」という言葉について。
探り求めるとき…(略)…その人の眼が自分の求めるものだけを見て、その人は何も見いだすことができず、何も心に受け入れることができないということです。その人はいつも求めているもののことしか考えないからです。
見いだすということは、自由であること、開いていること、まったく目標をもたないことなのです。
今すでにあるものに気づいていく大切さを思う。
「新しい何か」が自分を変えてくれるような気がして、今ここにはないものを探し求める、ずっと長いこと自分はそれをしていた気がします。最近はちょっとだけマシにはなったけど。
人生に何が隠されているのかはわからないけれど、それはおそらく、しっかりと今に意識を向けて、心を開いていなければ見えない何か。先ばかりを見ていたら見失ってしまうような何か。
「求める」ではなく「見いだす」というのが、とても印象的でした。
何かについて、どうしても理解ができなくてイライラがつのるようなとき、「まるで視界を阻まれているみたいだ」ともどかしく感じることがあります。頭に霧がかかったかのような。
そして稀に、本当に稀に、不意にさっと霧が晴れたかのように、ある物事が「理解る」瞬間。
それは、「新しく知った」という感じではなく、「思い出す」ような感覚です。
なぜ今までわからなかったんだろう、と不思議になるほど。
人生は、新しい何かを見つけるための旅ではなく、忘れてしまっている何かを思い出すための旅なのでしょうか。
全てをわかっていたら体験できないことを体験するために、真実は隠され。
記憶を封じられた状態から、少しずつ、かつては知っていたはずの隠された真実を見いだしていくための旅。
…思うことが多すぎて、まとまりませんが、そのうち折りに触れ、この本の言葉について、自分なりに何か感じたことを書いていけたらいいなと思っています。(書けるかな…)
思想で考えられ、言葉で表現できるものは、すべて一面的なのだ。すべて一面的で、半分なのだ、すべて完全を欠き、全一を欠いているのだ。
というシッダールタの言葉を反芻しつつ、その「言葉」で表現されているこの本が、自分にもたらしてくれるものの大きさを思う。