記憶と言葉 小説『終わりの感覚』を読んで

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)

作者: ジュリアンバーンズ,Julian Barnes,土屋政雄
出版社/メーカー: 新潮社
発売日: 2012/12/01


本屋でふと表紙が目に止まり、妙に心惹かれた本です。

「終わりの感覚」という陰鬱なような、美しいような、捉えどころのない印象の題名にも惹かれ。

読んでみると、抱いた印象とはかなり違ったものでしたが、人生のからくりのようなもの、直視するのが怖いような、真相めいたものが、後からじわじわと自分の中に浸透してくるような…(上手く表現できませんが)、そういう小説でした。

以下ネタバレ感想↓

まず、人の「記憶」というものの曖昧さについて、あらためて考えさせられます。

限りなく現実に沿った記憶を誠実に残している人から、容易に自分に都合のいいように記憶を書き換えられる人まで、その差はおそらく激しいと思いますが、皆、多かれ少なかれ、自分の見たいものを見て、思いたいように思い、そういう幻想を生きている。

幸せな想い出だけでなく、今さっき生まれた悔恨の情でさえも、それは同じ。
それさえも幻想でしかないのだと、最後にこの小説は証します。

主人公は、とても”一般的”な人生を生きてきた男性。誰しもが経験し、誰しもが通る道を通り、誰しもが悩むことに悩み。
あえて描かれたその凡庸さゆえに、読んでいると、自分にもどこか身に覚えがある気がして、気恥ずかしくもありつつ、そんな主人公に親しみを覚え、まるで自分を見ているようでドキリとさせられたりします。

そうして主人公に自分を重ねれば重ねるほど、最後まで読み終えたとき、呆然としてしまう。
「え?」となり、「ちょっと待って」と今まで読んできたストーリーを反芻してみるも、記憶に霧がかかったように、よく思い出せないことに気づく。

ベロニカの母から遺された500ポンドに込められた意味。
「エイドリアンは最後の3ヶ月間幸せそうだった」という、ベロニカの母の言葉の意味。
ベロニカという女性の印象。
エイドリアンという青年の認識。

その全てが覆され、人が、どれほど思い込みに満ちた幻想を生きているのかに気付かされ、愕然とします。
私たちが「人生」と思っているものの種明かしをされたような気持ちになります。

そして、言葉というものの持つ性質についても考えさせられました。

誰にも、どんなに正確な記憶を有している人にさえ、自分が発した言葉が、どこで、誰に、どのように作用するのかということは分かり得ない。

怒りと嫉妬に駆られた主人公の、瞬間の感情に任せて発した口汚い言葉が、あずかり知らないところで、ある作用を果たし、そしてそこからひとつの命が生まれ、ひとつの命が消えた。
言葉は、一旦外に出たら、発した当人の手に負えない切り離された存在となって、思いもかけないところで、思いもかけない作用を果たして、様々に人の運命を変えていく。

「責任の連鎖」。
気づくとそれはもう、様々に絡みあい、最初に言葉を発した人間の責任とは到底言えない域へ広がり続けていく。

言葉というのは、実はそれを発した人の意志を超えた、何か大きな存在のもとから生まれていて、伝えられるべきところへ運ばれていくのかもしれない。たとえそれが、感情に任せた醜い言葉であっても。
そんなことを感じました。

まるで全てが、何か大きな力によって仕組まれているかのよう。

後味はあまり良くないですが、今自分が生きているこの世界はいったい何なのかと、思わず立ち止まって考えさせられるような、そんな小説でした。

ちなみに、この小説は映画にもなっているんですね。→『ベロニカとの記憶』
DVDも出ているようなので、一度見てみたいです。

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