物語の力

昨晩、ある小説を読んで号泣してしまった話。

号泣というか、震えが止まらなかった。

以前記事に感想を書いた『我傍に立つ』の著者さんが、ご自身のブログで公表されている『高楼想話』という小説。

三国志に登場する、劉表の息子、劉綺(劉琦)英珠という人物のお話でした。
記事が2009年になっているので、そんなに以前に書かれたものなのかと。

三国志の人物名をそのまま使われているのがなんだか嬉しくて、楽しみに読み始めました。
(『我傍に立つ』も、実名で読んでみたいと、密かに勝手な夢を抱いています)

↓以下、ネタバレしまくりな感想です。

この英珠という青年の生い立ちが、あまりにも過酷。
人生にずっと、身内や味方であるはずの「内側」の人たちからの拒絶というものが、宿命のようにつきまとう。

涙腺崩壊は既にここから。

スケールは全く違うけど、かなしいかな自分の人生で遭遇してきたものと、共通する部分が多過ぎて、激しく感情移入してしまいました。
立場の重さや時代背景や深刻さが違いすぎるので、共感というのはおこがましいのですが。
あくまで小説の登場人物として共感したというなら、許されるかな?

身内からの拒絶 (私の場合、父ではありません)。
その原因と、家庭内の人間関係の在りよう。
私を疎ましく思う人たちから、意図的に悪い評判を立てられた為に、それまでとても良い関係だった人たちから蔑まれたり、不当な扱いをされたりしたこと。
激しく共感してしまったのは、そんな部分。

私には、譲るべき地位もなければ、命を狙われる心配もないので、実家から脱出することもなく(願望はずっとあった)、なんとなく折り合いをつけて今に至りますが。
ですが、それでも感情移入が激しく、読んでいる間、涙腺が崩壊しつづけておりました。(夜中にこっそり読んでいてよかった)

昔から、こういう立場に置かれた登場人物に感情移入してしまう。

何年か前の大河ドラマ『江』で、秀吉の甥、豊臣秀次が、秀吉から存在を疎まれ、無実の罪で切腹を命じられる場面も、たまらない思いで観ました。北村有起さんの演技も素晴らしく、未だに忘れられない。

…もとい、『高楼想話』に戻ります。

英珠が、孔明の「逃げろ」という助言を受け、奇跡的に地獄のような日々から解放されたことが、本当に救われる思いで、どうかこのまま無事で幸せになってくれ!と、切実に祈りながら読みました。

孔明ははじめ、「自分はそのような器ではない」と、助言を求める英珠から逃げまわっていますが、これほど追い詰められた英珠が、周りの評判だけで彼を頼ったとは思えず。きっと彼自身が感じる何かがあったのだろうし、周囲の評判を含めた孔明の存在そのものが、彼の唯一の心の支えであり、未来への希望だったんだろうな、と。
孔明への尊敬と信頼の念があったからこそ、孔明の「逃げろ」という言葉を心から受け入れ、「生きるという未来」を確信できたのだと思いました。
おそらく、他の誰かが同じ助言をしたとしても、同じ結果になったとは限らない。孔明は、何よりも彼に「未来を信じ切る心」を授けたのだと思いました。
無謀かと思われた「逃げる」という選択が、思いがけない形で現実になったのは、英珠の未来を信じる気持ちの強さゆえではないかと。

全てに深い意味があり、そういう必然が絡み合って様々な運命を動かしているんだとあらためて思わされます。

と、そんな感動を抱きつつ読み進めるうちに、英珠が『我傍に立つ』の江歳と同一人物であるらしいことが分かり始め、衝撃で鳥肌が止まらなくなり。
(三国志に詳しくないので、途中まで全くわからなかった)

『我傍に立つ』の中で、江歳の最期の場面は、あまりにも理不尽に思えて、トラウマのように残り続けていた場面で、この小説のことを考えると必ず頭に浮かぶ名前です。

(登場人物名が異なることもあり、作品を読まれていない方には何が何やらだと思います。すみません。)

なぜ。

周囲に流され自分を虐げた父親の死を、悼む心のある優しい青年が、恩義を返さんと孔明たちを救ったこの人が、あんなにも哀しい運命をたどるのかと信じられない気持ちになりました。

『我傍に立つ』で、至暁が、彼を自分の弟か分身のように想い、足繁く通い支えたのには、こういう経緯があったのか。

ちなみに、あとから『我傍に立つ』の江歳の場面を読み返してみましたが、『高楼想話』をラストまで読み終えたあとでも、あらためて、こちらの江歳の最期の場面に涙が止まらず。

あの場面は、ずっと消えずに引っかかっていた場面だったので、自分なりに、隆恒の心情を想像してみました。なぜ江歳にあれほど冷酷(に思えた)な態度をとったのか。

「立場上、譲位を受けることができなかった」のだとしても、ひとりの、目の前の青年の未来を救う選択はできなかったものなのか。

隆恒は、江歳に、譲位ではなく自分自身の力で民衆の信頼を得て、治めてほしかったのかな。だから、死を選ぼうとする江歳を許せなかったのかな。うーん分からない。

親からさえ虐げられ、命まで狙われ、それに耐えつづけ、ようやく解放された江歳にとって、再び人から非難されることが(しかも今度は不特定多数の民衆)、どれほどの恐怖と苦しみを伴うか。まるで世界の全てから否定されているような苦しみであることは想像にかたくなく。そんな彼に、これ以上を求めるのか。
隆恒のような人物でも、虐げられた者の苦しみ、否応なく影に追いやらた者の痛みにまでは、寄り添うことができなかったのだろうか。
民衆が隆恒を望んでも、江歳は卑屈になるどころか、自分と彼の器の違いを悟る聡明さを持ち、頭を下げてまで心から譲位を願ったというのに。

江歳のこの時の唯一の望みは、自分が存在することを許してもらえる世界で、ただ自分らしい人生を生き直したかっただけのはずで。

隆恒自身、孤独に追い詰められ、救いを求めていて、普通の状態ではなかったのだと思っても、やはりこの場面は読んでいて辛いものがありました。

そんな隆恒の目に「孤独」を感じ取り、「私は 、いつまでもあなたと伴に生き続けます 。」と言う至暁。

主人へのあまりに深い心、理解の深さがそこにあると思うのですが、あまりに深すぎて、未熟な私には理解及ばず。自分がもどかしい。
だけど、あの時至暁が隆恒の孤独な心を救っていなければ、至暁が彼の傍らにいなければ、隆恒は孤独なまま、王になることもなく、その後の歴史も変わっていたのかもしれない。

『高楼想話』に戻りますが、江歳、もとい英珠が、実はあのあと生還し、その後「諸葛」の名で幸せな人生を生きたという展開には、本当に救われる思いがしました。
著者さんがこの小説を書いてくださったことに感謝。

彼がその後、妻と子供に恵まれ幸せに生きたことが事実であったら、どんなにか素晴らしいだろう。
心からの願いが込められた物語には、人の心を癒やす力があると思いました。
事実であってほしいと願ってしまいますが。
あ、これはあくまで「小説」か。

余談ですが、この小説の劉綺英珠という人の人生に、源義経を思い浮かべてしまいました。
身内である兄から疎まれ、陥れられ、命を奪われ、実はその後も生き延びて、心ある人たちに助けられ新たな人生を歩んだという「義経北行伝説」がありますが、あれは事実なのか、彼を惜しみ、その死を哀れんだ人たちによるフィクションなのか。

どちらの人物も、身内の愛に恵まれず孤独な人生を送ったように見えますが、「北行伝説」や、この『高楼想話』という小説の存在は、彼らが愛されたことの証明のような気がしました。
事実にしろ、そうでないにしろ、彼らの存在を忘れず、愛し、悼み、幸せを願う人が確かにいて、その思いが形になったものだと思うので。
それが、後世まで残り語り継がれたらすばらしいな。

長々と失礼しました。(読み返したら、ホントに長い(汗))

2つの小説が錯綜して、なんだかよくわからない感想になってしまった。

どちらも素晴らしい小説なので、心からおすすめします。
これだけネタバレな内容を書いておいてなんですが(汗)、ぜひぜひ読んでみて下さい。

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