子どもたちから学ぶこと

先日再び、妹の子どもたちがうちにやって来ました。

手術をしようが、痛いところ、かゆいところがあろうが、幼稚園でちょっといじわるされようが、姉弟ゲンカしようが、お母さんに𠮟られようが、次の瞬間には笑い転げて生き生きと遊びに興じている子どもたちを見ていたら、大人が日々、こんなにも生きづらさを感じているのはなぜなんだろう?と真面目に考えてしまいました。

もしかすると、大人は「常識」「正しさ」にあまりにも縛られ過ぎているのかな。

一人一人が勝手にこだわっている「正しさ」のせいではないのかな。

ずっと長いこと、漠然とではあるけれど、なんとなく「正しくあらねばならない」んだと、強迫観念に駆られて生きてきた、ような気がします。知らず知らず、他人にも自分の思う「正しさ」を求めたり、押し付けたりしていた。

それが息苦しさの原因かもしれない。

よくよく考えてみたら、「正しさ」ってなんだろう?誰が決めたのだろう。

人が傷つくような言動は、もちろん「正しく」ない。だけど、暴力、暴言、犯罪などはっきりとしたものは別として、「正しさ」に、全ての人に当てはまる基準なんて果たしてあるのかな。

天真爛漫で、ひたすら楽しいことを探し求めてワクワクして生きている子どもたちに比べ、「正しさ」に縛られてカリカリピリピリしている大人の方が、なんだかとても不自由で、不器用に生きている気がしました。

自分にも他人にも「正しい行い」を求めていると、罪悪感や怒りの感情から抜け出せなくなり行き詰まってしまう…。

それよりも、自分の複雑怪奇な心の動きを、ありのまま追うだけでも、もう充分なんじゃないかと思ったりしてしまいます。「正しさ」なんて追っている場合じゃないような。

人から、本から、愛犬から、生き物たちから、自然から、「正しさ」ではなく、自分の心の琴線に触れるもの、内側を豊かにしてくれるような気がするものを、「正しさ」で選り分けずに素直に掬いあげる感覚を、大事にしたいなと。

一冊の本の中でも感じ方に波があるし、一人の人でも、共感できるときと反発心が湧くときがある。違う個性だから、全てに共感できることはまずないけれど、それでいいのだと思います。むしろそれが自然だと。

共感できない部分に出会ったからといって、全てを切り捨ててしまったり、反目してしまうのはもったいないのだと、思うようになりました。

共感できる人を探すのでなく、誰のどの部分と共感できるか、この本のどの部分が心に響いたか、そういうひとつひとつを拾いあげて、大切にしていけたらいいな。

自分や人や世の中が変わることを願うより、生きているうちに、あとどれだけ自分にとっての宝物を見つけられるかなと、そんなふうに気持ちを切り替えてみると、息苦しかった日常にも、ちょっとしたワクワクを感じられます。

いつも子どもたちが、考えるきっかけ、生きるヒントをくれます。感謝。

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