今日は3度目の記事更新です。
前記事で、
「愛は未来に存在している。過去にだって(過去世かもしれない)存在したかもしれない。忘れているだけ。まだ気づいていないだけ。」
と書いたのは、ドラマの影響もありますが、こちらのブログの記事の影響を受けてのことです。
と、書いておかなければいけない気がしたのでσ(^_^;)
どうも私は、日頃からこの方の言葉にすごく影響を受けているような気がします。
はたと気づいたのですが、ブログの記事を引用させていただくのも、もう何度目か。
こういうのも、(あくまで一方的な)何かのご縁かな。ご本人がもし知ったら迷惑かもと思いますが(^_^;)
それはさておき、この記事の中での、
「今ここにない」からと言って愛がなかったわけではない。
誰かを愛して慈しむ心は、永遠の場にストックされて存在し続ける。
という言葉が、とてつもなく心に沁みた話です。
普段、テレビや本などで、「家族愛」「兄弟愛」「友情」などが、まるで「誰の元にも当たり前にあるもの」であるかのような前提で描かれているものがやたらと多く、ひねくれている私は見るたび辟易としていました。
とくに「親子愛」。成功者の話や、自己啓発本でもやたらと出てくる。
それらは誰もが手にできるものではないのに。決して当たり前ではない、奇跡のような、文字通り「有り難い」ものなのに。
「子供なら、親を労るのは当たり前。」「親に感謝するのも当たり前。」事情も知らないのに、そうしない(できない)子をことさらに責める風潮も嫌いです。
本当は誰だって、できることなら親を労りたいし、感謝したいはず。だけど、それが自然にできない関係だってある。親子だって、未熟な者同士の関係。たとえ目に見えて劣悪な環境ではなくても、当たり前に愛情に恵まれているとは限らない。他人からは決して見えない、当人同士にしかわからない埋められない深い溝が存在することだってある。
他人がとやかく言うのは違うと、普段から、そんな思いっきりやさぐれた気持ちで、冷めた気持ちでいました。(我ながらひねくれているなあ)
「◯◯愛」の押し付けや、そういうものに恵まれていない人を見下す風潮はもううんざり。
そんな気持ちでいたなかで、
「今ここにない」からと言って愛がなかったわけではない。
という言葉を見つけたときに、「ああ、優しい言葉だ」と思いました。
孤独を抱える人、世間的には負組と見下されるような人をも受け入れるような、優しい響きの言葉だと思いました。
こういう言葉を自然に発するような人は信じられる、そんな気がして、嬉しかった。救われる思いがしました。
(あくまで私個人の勝手な解釈、思い込みで書いておりますσ(^_^;)ブログ主さんの真意とは違うかもしれません。)
こういう言葉にふいに出会えることも、「有り難し」です。