私事で、暗めの話なので、興味のない方はスルーお願いしますm(_ _)m
人には、それぞれ人生で克服しなければならないテーマのようなものがあるのかもしれない、と思った話。
その人に繰り返し起こる、似たような試練。
自分の場合は、「誤解」「濡れ衣」ということが、なぜかずっとつきまとってきました。
最初の記憶を遡ると、幼稚園児のとき。
それから、家庭内でも、学校でも、職場でも、全く関わっていないことの濡れ衣を着せられたり、誤解を受けるようなことを言いふらされたり、というようなことが、数えきれないほど続いてきました。
(詳しい内容を書き始めるときりがないので、やめておきます。)
曖昧な誤解ではなく、100%違うというわかりやすいものがほとんどです。
だけど、一度受けた誤解は、驚くほど払拭されにくいもの。
そういう星の下に生まれたのか、自分の人となりに原因があるのか。それこそ、自分の思考が招いているのか。
先日、名づけ親でもある母から、「名前の字画が悪かったのかねえ」と言われ、そんなことを言わせてしまった自分が情けなく。
自分の中の対処法としては、まず、自分が自分の言動と冷静に向かい合うこと。意識して冷静に客観的に自分を観察してみる。
それで、やましさがないのなら、断固として自分が自分を信じてあげること。
意識的に、心の底から、自分を信じる。
これは、言うは易し行うは難しなのですが。
本来、自分は濡れ衣だと知っているのだから、堂々としていればいい。小さくなる必要などない。
だけど、放っておくと、怒り、悔しさ、やりきれなさ、周りの反応に対する恐怖感でいっぱいになり、自分を信じる心の余裕がなく、何もやましいことがないのに、周りの空気に押され萎縮してしまう。
それでも、自分で自分を信じ切る努力をやめてはいけないと、何度も気持ちを整え直し。
そうしていると、心ある人が現れてくれることがあります。
中立の立場として、まず真相を知ろうとしてくれる。
批判を始める前に、私のところに直接話を聞きにきてくれる。
公に庇ってくれるわけではなくても、「わかってくれている人が、この世にひとりでもいる」それがどれほどの救いになるか。
そういう方の存在が、本当に本当にありがたい。
私の願いは、真相が明らかになること。それだけだから。
困難な状況のときほど、周囲の人となりが見えてくるもので。
最近は、簡単に他人の意見に流され、信じ込み、まるで自分が断罪してやると言わんばかりに批判的な態度をとってくる人を見ていると、まるで操り人形みたいだ、と思ってしまいます。自分の目では何も見ず、目の前の事実を無視して人の意見だけを鵜呑みにし、そっくりそのままその意見を真似てしゃべる様子は。
そういう過ちを自分も犯さないように気をつけたい、とも真剣に思う。あのようにはなりたくないし、自分と同じ思いを、誰かにさせたくはない。
最近では、人の評価や好意や理解を頼りにするのではなく、自分のことは自分が面倒を見るのが一番、と思います。
自分が信じてあげる。自分が褒めてあげる。
(自分で反省して叱ることも多々ありますが)
それで充分、とする。
そう割り切るようになってから、ずいぶん楽になりました。
人から評価をいただいたり、好意を向けられればやっぱりうれしい。人間ですから。
うれしいし、ありがたいし、幸せ。
だけど、もしもそれがないからといって、不幸ではないということ。不足ではない。
いい意味で、人に期待しないということです。
人に求めないということ。
淋しく聞こえるかもしれませんが、自由になるために、とても大切なことでした。自分にとっては。
そんなふうに思えるようになってから、不思議と、誤解されてもすぐに解けたり、偶然が重なり、過去の濡れ衣が突然晴れたり、ということが起こるようになりました。
だけど、それでもまだ、未だに、「人生のテーマ」は繰り返され、ふと心が折れそうになるときがあります。
うまく割り切ることができずに、もういいよ、もうやめてと神様を恨みたくなることも、自分の人生を呪うことも、生きるのをやめてしまいたいと思うことも。
それほど強い人間ではないらしい。まだまだだ。
先日、心が折れかかっていたときに、偶然ある方のブログで出逢った言葉が、とても心に沁みました。
“艱難 汝を玉にす”
このことわざは、たぶん想像以上に真実です。
(カンナンナンジヲタマニス)
意味は、人は困難や苦労を乗り越えることによって、初めて立派な人間に成長する、ということだそうです。
地中から掘り出された粗玉が、磨かれて美しい玉になるとう意味から。
とても辛い時期だったため、沁みました。
涙がでました。
がんばれ自分。まだ、がんばれる。
自分を励ますきっかけをいただき、感謝。
困難こそが、自分を磨いてくれる。そう信じていれば、乗り越えられるはず。
生きているうちは、辛くても自分の人生のテーマから逃げないように。
そうしたら、いつか必ず報われるはず。たとえそれが「今世」ではなくても。