『檸檬』との妙な出逢い

梶井基次郎『檸檬』。

ここふた月ほど、行く本屋行く本屋で、なぜかほぼ必ず目に止まる本です。
一度も読んだ覚えがなく、特に興味もないのに。
特に目立つところに置いてあるわけでもないのだけど。

たまたま読んでいた本に、『檸檬』の引用や紹介文が出てきたことも、わずかの間に、3度。
読めということか?
ずっと気にはなりつつ、なぜか読む気になれずにいました。

そして昨日、訪れた本屋で、綺麗に整頓された棚から一冊だけ3分の1ほど飛び出している本があり。
ふと背表紙を見ると、『檸檬』だったので、思わずぞっとしてしまった☆
その本は、イラストレーターのげみさんが挿絵を描いた、画集のような『檸檬』でした。
「これならどうだ!」と差し出されているような気分(笑)。
ついに根負けして、その本を手に取りパラパラ立ち読み。

こ、これはまさしく運命の出会い!

…と、いうことにもならず。
流し読みではイマイチこの小説の良さが分からず。
イラストが美しくて素敵な感じの本でしたが、ちょっとお高かったので買わず、結局、電子書籍で無料のものをダウンロードして読みました。

ストーリー(というか、主人公の独白)を追う感じでささっと読んでしまったのと、仕事の疲れで何度も眠気が襲ったのとで、読後は、

…え?終わり?

…で?

…どういうこと?

うーん、私の感性不足か。せめてもうちょっと落ち着いた静かな気分のときに、ゆっくり丁寧に、想像力を膨らませて読んでみるべきか、と思い。

今日あらためて読みなおしてみました。
ちゃんと読めたのかどうか、わかりませんが (おそらく読めていない)、自分なりの感想をちょっとだけ。

焦燥感に苦しめられている主人公が、独特な感性で日常を見つめていて、楽しかった頃の思い出にすらどこかしら物悲しさが漂っている感じがしました。

錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく 。なんのことはない 、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである 。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ 。

「現実の私自身を見失うのを楽しんだ」というところ、どこか切なくて胸がギュッとなりました。

だけど誰にでも経験があるのかもしれない。私はある。

何か華やかな美しい音楽の快速調の流れが 、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面 ― 的なものを差しつけられて 、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる 。

この発想は面白いなあ。

果物が、音楽が固まって物質化したものだとすると、檸檬はどんな音色?あの形、あの色、あの質感を音にしたら…。ぶどうやいちごは?スイカのあの派手な柄は…と。

果物をそんなふうにとらえたこと、一度もなかった。

普通なら、あえて言葉にしようと思わないような細かな雑感が、文章になっていて、まるで画家が絵を描くように、言葉を紡いで心のうちを表現している感じが面白い。

『檸檬』は、主人公にとってなんだったのかな。
全ての憂鬱を吹き飛ばしてくれるもの?
心を潤してくれるもの?
精神的、身体的に弱っているときほど、素朴さ、シンプルさを欲するような気はするけれど。
なぜ、檸檬だったのか?

主人公の焦燥は、どこか終わりを感じさせるような、「死」を連想させる暗さがあり、それとは対照的な、生命力に満ちた檸檬の、鮮やかな色彩、重さ、瑞々しさ。

なぜこの小説とご縁があったのかわかりませんが、たぶん、しばらくしたらまた読み返してみるような気がします。
その時は、もうちょっとマシな感想を持てるかな。

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