「『読書の日記』に寄せて」を読んで思ったこと

先日購入した『読書の日記』(阿久津隆)に、2つ折りの小さなピンク色の紙が挟まっていました。

「阿久津隆『読書の日記』に寄せて」

3名の方が、この本と著者さんについて語っていました。
その中で、印象的だった箇所について。

阿久津さんは、食べるように本を読む。仕事が忙しい人も、生活が落ち着かない人も、食事はする。ちょうどそんなふうに。人は、食べたものと読んだものでできているのだ、という気がしてくる。
(内沼晋太郎)

いいなあ。こんなふうに本が読めるのってすごくいい。

読書って、目的にもよるけれど、「何かを吸収しよう!」と貪欲になったり、人に誇示したりするのではなく、もっとごくごく自然に、生活の中にあるのがいい。それが、知らず知らずのうちに自分をつくっている、というのがいい。

「今日食べたご飯が美味しくてね」と話すのと同じように、「今日読んだ本が面白くてさ」と話せるのがいい。

こういう高い能力を持った人は、世間では成功すると思われがちだが、その高さの質が世間と折り合わないために、「労多くして益少なし」というか、端からはわざわざ見返りが少ないことばかりえらんでいるように映る。
(保坂和志)

…なんだか、そういうことって、あるのかもしれない。
(まだこの本を少ししか読んでいないので、著者さんのことはよく存じませんが、一般論として。)

「世間の評価」って、その時の多数派の人たちが何を求めていて、何を良しとするかで変わるもの。それを拠り所にしていたら、常に不安定な上に、自分がなくなってしまう、きっと。
だから、世間の評価を気にして自分を失っては、もったいないように思います。

その人がその人らしさを失わずにい続けることが、本当は世間の評価よりもずっと大切で、そうして大切に守ってコツコツ育て続けたものが、きっと誰かの心に真っ直ぐ届くのではないかな。ずっとその誰かの心の真ん中に残り続けるのではないかな。

と、世間を相手にしたことなど全くない自分が、そんなことをえらそうに言っても説得力ゼロですが。甘いと𠮟られそうだ。すみませんm(_ _)m

ただ、「世間」を「他者」に置き換えれば、誰の日常にも当てはまることなのかなあと。

保坂氏が言う「端からはわざわざ見返りが少ないことばかりえらんでいるように映る」ような人を、応援したい気持ちでいる人もきっと沢山いて、多数派の価値観におされて大きな声にはならないかもしれないけれど、「見返りが少ないことばかりえらんでいる」誠実に、救われていたりすると思います。

欲ばかりを追っているように見える世の中に嫌気がさして、人を信じるのもしんどくなって、たまにはもういなくなりたいと思ったりもする日常で、誰かの誠実に触れたときの、うれしさ。

世間の価値観に流されず、自分を失わずにいる人、たとえ見返りがなくても何かを提供せずにいられない人、そういう人が、本当に強い人なのかもしれない。そんなふうに思います。

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